「命のビザ」で6千人のユダヤ人を救った『日本のシンドラー』杉原千畝さんの功績をご存知でしょうか?

皆さん、映画『シンドラーのリスト』で有名である、”オスカー・シンドラー”をご存知でしょうか?

ハリウッド映画界の巨匠であるスティーブン・スピルバーグ監督の作品『シンドラーのリスト』はアカデミー賞で7部門を受賞した不朽の名作です。

この映画のモデルとなったオスカー・シンドラーは、ドイツの実業家でありながら1200人ものユダヤ人をガス室送りから助けただしたとされており、世界で認知された英雄とされています。

そんな英雄であるオスカー・シンドラーよりも、多くのユダヤ人の命を救った日本人がいることを
皆さんはご存知でしょうか?

その日本人の名前は『杉原千畝』

杉原千畝さんは、第2次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた外交官です。

先月、リトアニアにて、第2次世界大戦中に多くのユダヤ人の命を救った『杉原千畝』さんを讃える式典が行われたと報じられました。

しかし、日本では、杉原千畝さんの功績は知られておらず、さらには戦後間もなく外務省をやめさせられ、杉原千畝さんは不名誉のみを背負わされ、長年にわたる敵意や悪意の中傷を受けることとなったのです。

杉原千畝さんとは、岐阜県八重津町生まれ、早稲田大学高等師範部英語科を中退し、外務省の官費留学生として満州のハルビンでロシア語を学んだ後、外務省へと採用されました。

採用後、満州、フィンランドなどで勤務を経て、リトアニアの日本領事館に領事代理として赴任。

その後1940年にナチスドイツは、リトアニアの隣国であるポーランドを占拠。
追害され逃げ場を失うユダヤ人は、第三国に移住する他手段はなく、日本を経由していこうと日本通過ビザの発行を求めてきました。

杉原千畝さんは要件を満たないユダヤ人難民にも人道上ビザの発行を認めるように外務省に願い出たが、日独三国同盟の締結を間近に控えていたため、むやみにドイツを刺激したくないとの国内の政治事情もあり、ビザ発行の許可は下りませんでした。

しかし、命さながらリトアニアまでたどり着き、ビザの発行を懇願するユダヤ人たちを見捨てることができず、苦悩の末、杉原千畝さんは独断で日本通過ビザ「命のビザ」を発行することを決断したのです。

ここから「日本のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝さんのユダヤ人救出が始まります。
杉原千畝さんのビザの発行作業は、約1ヶ月間に及び、カウナス領事館が閉鎖され、外務省からベルリンへの移動命令を無視できなくなる限界ギリギリまで、寝る間を惜しんで必死に続けられたと言います。

その数は記録されているだけでも2139枚に及び、実際は推定6000人ものユダヤ人のためにビザを発行したそうです。

その限界ギリギリまでの発行について、このように記録されています。

 

ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。そして「列車と並んで泣きながら走っている人」が、千畝たちの「姿が見えなくなるまで何度も叫び続けて」いた。

引用:ja.wikipedia

 

 

その後チェコ、ルーマニアなどで勤務し、帰国退職通知を受けて46年に帰国し外務省を退職。
その際に外交官名簿から削除されるという処遇を受けたのです。

退職後は長年に渡り中傷を受け続けてきましたが、1985年に日本人唯一、自分の命の危険を冒し、ユダヤ人の救ってくれた非ユダヤ人を表す「ヤド・バシェム賞」を受賞しました。

しかし、その頃杉原千畝さんは、年齢と病気のため、式に出席することができず、翌年の1986年にこの世を去ってしまいます。

その後、日本政府による、杉原さん遺族への謝罪があり、2000年に名誉回復がされました。

このような、日本人が知らない功績を持つ杉原千畝さん。
先月リトアニアにて、「杉原千畝さんを讃える式典」が行なわれました。

杉原千畝さんの功績を讃える記念プレートは、その功績にゆかりのあるカウナス駅とメトロポリスホテルに設置されたそうです。
このような名誉ある功績を残した杉原千畝さんを皆さんはご存知でしたか?
この話は、歴史の教科書には載っておらず、まだまだ日本国内での認知は少ないのですが、海外では杉原千畝さんの功績を大きく評価しているとのこと。

そんな外務省という、国外では日本の代表とも言える存在でありながら、人道的な決断をした杉原千畝さんを誇りに思います。